カテゴリ: 歴史

 先日の「東京・大阪間30分の時代・・・」の記事に関して、友人から質問があった当時のBOAC British Overseas Airways Corporation (英国海外航空)の広告。BOACは、現在のBA 英国航空の前身になります。

 本日の画像は、先日の記事と同じ、新阪急ホテルの1964年の記念冊子の広告です。

 1960年代、パン・アメリカン航空が世界一周路線を開設し、次にBOACも開設します。この広告では、同じボーイング707型で世界一周ができると書かれていますから、パン・アメリカンは機材を変えての就航だったのでしょう。

  当時、707型機にはロールスロイス社のエンジンが搭載され、「ロールスロイス707」と呼ばれた豪華なものだったようです。
 
  私が航空会社に勤務していた1980年代の終わりには、707型機はまだ、パキスタン航空が貨物専用機として日本に運航させていました。よく故障して、部品が足らず、一機を部品採り用に置いてあるんだよという話を空港のスタッフから聞いて、「へえ~、そんな古い飛行機が飛んでいるのか」と思った記憶があります。

  広告に示されたバンコク経由の南回りの立ち寄り地が、デリー、テヘラン、ベイルートと時代を感じさせます。この時代に旅してみたかったなと少し思います。

 ちなみに、BOACは、1966年3月5日に、707型機の南回り航路羽田発ロンドン行きの911便が富士山上空で乱気流に巻き込まれ、空中分解し、墜落するという事故を起こします。1960年代後半は、民間旅客機の大型化、ジェット化の黎明期であり、それだけに事故も多発した時期でした。

 

Img011

Bt0109

Bt0098_2

  1935年(昭和10年)に、大阪市北区中之島(現:住友中之島ビル)に開業した新大阪ホテル。現在のリーガロイヤルホテルの元となるホテルで、地下2階、地上8階建て、住友を中心に関西財界が中心になって、大阪を代表する国際的ホテルとして開業したものです。

 パンフレットには、「Finest Hotel in the Far East」(極東一のホテル)と書かれています。230室は全てバスルーム付き。三つのビルに別れており、窓も全室に付いていました。

 パンフレットの写真からは豪華な開業当時の様子が伺われます。大阪城は1931年に再建されたばかりでした。当時の大阪は繊維産業、満州、朝鮮半島、中国大陸との貿易も華やかで名実ともに大大阪だった時代だった頃です。パンフレットにも「大阪は観光客の関心を惹く歴史的なものがあり、さらに近代的産業に寄与する企業が集積しています」と書かれています。

 このパンフレットは、外国人向けにすべて英語で作られています。さて、気になる宿泊料。この豪華ホテル、シングルルーム一泊5円、朝食が1円50銭、昼食が2円、夕食が2円50銭です。
 比較するのは難しいですが、1935年当時の物価は、たばこ(ゴールデンバット)7銭、新聞購読月90銭、 はがき1銭5厘、もり・かけそば 10 銭 、白米(10 キロ)2 円 50 銭だったそうです。
 
 空調が整い、シモンズのベッド、電話や各種サービスを見ると、現在とはあまり変わらないレベルです。面白いのは化学実験室というのが紹介されていて、食材などの検査をしていますと書かれています。

 パンフレットからは華やかな雰囲気だけが伝わってきますが、開業の少し前、1931(昭和6)年には満州事変が起き、ホテルが開業した1935年には国内では東京帝国大学名誉教授の美濃部達吉が天皇機関説で反国体的と非難され、国外ではナチス・ドイツが台頭していました。この後、坂道を転がり落ちるように、第二次世界大戦に突き進んでいくのです。平穏無事な平和な生活が、わずかな日数で崩壊することを私たちは歴史から学ばねばなりません。

Newosakahtl

地下2階、地上8階建。
1931年(昭和6年)10月1日着工
1935年(昭和10年)1月10日竣工
基礎は大林組
本体は清水組

Newosakahotl1

映画の場面のようなロビーの風景。吹き抜けになっています。右下はカクテルラウンジ。

Newosakahtl2

エアコンや電気設備は当時としては最先端です。おもしろいのは、右下の写真で、化学実験室と書かれています。ドクターが提供する食品を科学的に分析していたそうです。

Newosakahtl3

グリルルーム。
イスなどのデザインもおしゃれです

 リニアができれば、東京~大阪間が一時間になって、大きく日本地図が変わる!なんて騒がれていますが、実は、今から半世紀前、1960年代には東京・大阪間は30分で結ばれていたのです。
 
 その証拠がこれ。これは新阪急ホテルが1964年にオープンした時に発行した広報誌の広告です。

 1965年には、全日空がボーイング727を東京~大阪間に就航させ、所要時間を30分として運航していました。なんと最短飛行時間26分という記録もあります。

 この話は、私が航空会社に勤務していた時代に、よく先輩たちから聞かされました。私が聞いた話では、もっと早いものもありました。「今は、航空機は混み合いすぎて、本領を発揮できてないんだよ」と笑いながら話する先輩方を思い出します。

 1960年代後半から1970年代は、まだのんびりした時代で、日本の空を飛ぶ飛行機も少なく、機長が自由に操縦できたようで、「天気が良くて富士山がよく見えますと、ぐるりと一周してくれた便もあった」などという話も先輩たちから聞きました。中には、時刻表など関係なく、いかに早く飛ばすかを競っていた機長たちもいたようです。

 残念ながら、この後、1966年に全日空が羽田沖で墜落事故を起こしたことや、運航する航空機の急増などで、機長が自由に飛ばすということはなくなり、フライトプランに則って運航させるようになりました。
 
 また、そのために飛行時間に余裕を持たせるために、現在のように東京~羽田間は1時間という所要時間となったのです。

 航空機そのものや運航管理システムなどの技術革新が起これば、以前のように東京・大阪間が30分なんていうのも可能にならないかなと、想像してしまいました。


 

Img009

※「Hotel new HANKYU WINTER 1964」より

 

Bt0109

Bt0098_2

 古いデータを整理していたら、懐かしい風景を見つけました。
 

 2003年の表参道の風景。同潤会青山アパートの最後の姿です。ちょうど年末に取り壊しが始まるということを聞き、東京出張の折に少し寄り道をして撮影したものです。

 以前は、東京都内でもいろいろな表情があったのが、今はどこも東京の顔だけになってしまったなあ、とある知り合いが言っていました。

 低層で、緑が多く、表通りから少し入ると、ちょっと不思議な感覚になれた同潤会青山アパートもなくなって、もう10年以上が経つのですねえ。

 東京オリンピックの招致で湧く東京、値ごろ感があると外国人にも人気だという京都のマンションブーム、、、、古いものが失われて、新しいものが作られていくのが都市の宿命とは判っているものの、少し寂しい気持ちもあります。

☆画像はギャラリーからご覧いただけます。

Coverimagedsc00776

 大阪駅前の再開発が進んでいる。すでに立て直された阪急百貨店に続いて、阪神百貨店の入るビルも建て直しが計画され、すでに阪神電車のホーム横にあった食堂街などは閉鎖され、地下街の店舗も閉店しているところが目に付くようになってきた。すでに隣接する新阪急ビルは解体が始まった。つぎはいよいよ阪神百貨店の解体が近づいている。

 阪神百貨店の入る大阪神ビルは東半分の扇型の部分が戦前に建設された梅田阪神ビルと呼ばれるもの。昭和12年の計画当初8階だったものが戦時統制下で4階までしか建てられなかった。(阪神百貨店の公式HPに掲載されている昭和20年代初期の阪神ビル周辺の写真には、屋上に建設途中で止まった後を見ることができます。ちなみに三代目大阪駅も5階まで鉄骨を組み上げながら工事が停止され、現在の大阪駅に改築されるまで建設途中で止まった姿を見せていた。)

 その後、昭和36年に名称を大阪神ビルに改称。そして、昭和38年に増床工事を行い、現在の形になった。 また、現在、ホールの真ん中に無粋にも位置しているエスカレーターは、建設当時は無かったもののようだ。昭和39年に阪神百貨店の2階と向かいの阪急百貨店の2階とを結ぶ大歩道橋が建設され、その際に新設されたもののようだ。この円形の優美な形に無粋な位置にある訳だ。

 さて、写真は阪神百貨店の1階東側。曽根崎警察や阪急百貨店に面する角の部分です。現在はあまり人通りはない。しかし、建設当時の第二次世界大戦前には、前を市電が走り、正面には大阪駅、さらに通りの向いには阪急百貨が立地するという人通りの多い場所だったはずだ。

 現在、「円形ホール」と名付けられたこの部分は、かつては阪神梅田駅と阪神百貨店の正面玄関であったようです。円形に広々と取られたスペースとなっており、床は天然大理石であり、化石が沢山見られるというので、その筋では有名らしい。

 公表されている来歴からすれば、この円形ホール部分は4階までは戦前に建設された部分だろう。かつての阪急百貨店前の阪急電車の旧コンコースには、伊東忠太氏によるガラスモザイクの壁画やシャンデリアなどがあり、取り壊しにはいろいろと話題になった。(壁画は新築なった阪急百貨店内のレストランに移築保存されている。)  それに比較すると、戦時体制下での建設だったせいか、華美な装飾などはなく、また現在は目立たない位置にあるせいか、あまり話題にはなっていない。

 しかし、この旧の正面玄関(円形ホール)が見られるのも、あとわずかな期間だ。戦前の大大阪時代を偲ばせる物件が、静かに無くなっていく。

934859_763700520369032_458014739289

10420035_763700453702372_4704197503

10689817_763700500369034_4236210844

↑このページのトップヘ